マラソン大会における救護体制|過去事例に学ぶ安心・安全のつくり方

国内外でマラソン人気は高まり続けています。東京マラソン2024には 3万7,000人超 が出走し、都市部の大規模大会では数万人規模のランナーが公道を走るのが当たり前になりました。さらに米国だけでも2010〜2023年の完走者は延べ 3,000万人近く に達したとの報告があり、マラソンは「誰でも挑戦できる国民的イベント」になりつつあります。
しかし華やかな数字の裏側には、主催者が見逃してはならない“命のリスク”が潜んでいます。最新の研究によれば、フル&ハーフマラソン完走者10万⼈あたり 0.60件(おおよそ 17万人に1人)の割合で心停止が発生しています。発生確率こそ低いものの、倒れた場所での初動が数分遅れるだけで致命率が跳ね上がるため、適切なAED配置と訓練された救護スタッフの存在が大会の“生死線”を決めるのが現実です。
さらに、暑熱・寒冷・長時間運動が重なるマラソンでは熱中症や低体温症といった環境由来のリスクも顕著です。たとえば東京2020オリンピック(札幌開催)のマラソン&競歩で医務室に搬送された選手50名中 96%が熱関連疾患を発症したという報告があり、世界トップ選手でさえ万全ではありません。市民大会ではさらに幅広い体力・年齢層が走るため、軽症に見えた脱水や痙攣が深刻化し、日常生活や選手生命に影響を残すケースも少なくありません。
こうした“見えにくいリスク”を最小化できるかどうかは、主催者が事前にどこまで救護体制を設計できるか に懸かっています。本記事では、主催者が必ず抑さえるべき傷病の実態とリスクを整理し、救護計画・物品・人員配置の具体的手法を体系的に解説します。
知っておくべき事実:マラソン大会では“実際に”何が起きているのか?
どの大会規模でも、軽症が大量発生しつつ、ごく少数でも生命に直結する重症が必ず紛れ込む -これがマラソン救護の現実です。
“よくある”ケガと“まれだけど致命的”な疾患
傷病カテゴリ | 主な症状・誘因 | 実際の発生データ | ポイント |
脱水・熱中症 | めまい・嘔吐・体温上昇/高温多湿+電解質不足 | 2002-2005年ボルチモア・マラソン医療記録では受診者の32 %が脱水関連 ※1 | 放置→多臓器不全・死亡。熱射病なら30分以内の冷却が生死ライン |
筋・関節障害 (痙攣・膝痛など) | 走行衝撃・疲労/フォーム不良 | 2002-2005年ボルチモア・マラソンで救護所受診の25 % ※1 | “走れる痛み”が肉離れや靱帯損傷に |
皮膚損傷 (靴ずれ・転倒擦過) | 摩擦・転倒 | 受診の約20 % ※1 | 見落とすと蜂窩織炎→入院リスク、完走率低下 |
低体温症 | 震え・判断力低下/雨天+汗冷え | ボストンマラソン 2018で救急搬送事例あり ※2 | 体温32 ℃以下で致死的不整脈 |
低ナトリウム血症 | 手足のむくみ・意識障害/“水だけ大量補給” | ボストン2002で初心者女性が死亡※3 | 脳浮腫→呼吸停止、症状が脱水と似て誤判断しやすい |
心停止・重篤心疾患 | 転倒・意識消失/潜在冠疾患+極度負荷 | 0.54件/10万人完走者 (2000-2010) ※4 | 2分以内にAED、毎分10%救命率が低下 |
※1 Hospital-Based Event Medical Support for the Baltimore Marathon, 2002−2005
※2 LA Marathon runners face rain-soaked pavement
※3 Hyponatremia among Runners in the Boston Marathon
※4 Cardiac Arrest during Long-Distance Running Races
軽症(筋障害・皮膚損傷)は“数”が多く、救護所をパンクさせやすい傷病です。一方、発生率が低い心停止は1件でも訴訟・大会のブランド毀損に直結します。軽症をさばく回転力と重症を瞬時に救う初動力 – 両方を同じ計画内で担保しなければなりません。
リスクは“誰”にでも、“どこ”でも起こる
上記の傷病の特徴を踏まえつつ、マラソン大会における救護活動では以下のポイントを抑えなければなりません。
ベテランでも油断禁物
札幌での東京五輪マラソンでは世界トップ選手50名中48名が熱関連疾患で医務室へ搬送されました。経験や才能は万能の盾ではありません。
コース後半〜ゴールが魔のゾーン
研究では心停止の約8割がラスト25 %(フルマラソンでは30 km以降)に集中するとも言われています。またフィニッシュ直後に倒れる事例もあるため、給水・AED配置は「終盤寄せ」が重要です。
気候が変化すると救護需要は変動
気温が上昇すると熱中症リスクは大幅に上昇します。暑さ指数(WBGT)の監視と中止判断も含めたリスクマネジメントを適切に運用する必要があります。
“水だけ”補給が招く低ナトリウム血症
初心者ほど「脱水が怖い」と水をがぶ飲みし、血中ナトリウムを希釈してしまいがちです。そのため、スポドリ・塩タブレット等の積極提供と事前啓発が重要になります。
実際、東京マラソン2024は3万7,000人超が走り、救護所受診率は3%弱、救急搬送は0.03%程度(大会報告)という結果になりました。また他の市民マラソンの例では、大阪マラソンでは0.03%強、岡山マラソンでは0.1%強の救急搬送率が報告されています。見た目上は僅かな確率とはいえ、この確率からどれだけの台数の救急車、どれだけの医療スタッフを必要とするか – それを数字でシミュレーションしておくことが危機管理の第一歩です。
このように、マラソン大会は「確率の低い大事故」と「確率の高い小さな事故」が同時進行するイベントです。主催者は〈頻度 × 重症度〉の掛け算で救護計画を設計することが必要になります。
救護体制の“3つの柱”──物品・人員・計画をどうそろえるか
事故を「ゼロ」にする方法はありません。だからこそ 〈物品〉〈人員〉〈計画〉を三位一体で準備し、軽症ラッシュにも重症アラートにも “転ばぬ先の杖” を置いておく -これが主催者の責任です。
〈物品〉──“あって良かった”を“必ずある”に変える
カテゴリ | 必須アイテム | ポイント |
一次救命 | AED、レシーバ | コース上 5 kmごと+ゴールに常設(日本陸連推奨)。加えて自転車救護隊に持ち運び可能な型を搭載し“2 分以内”の到着を狙う。 |
応急処置 | ガーゼ、包帯、テープ、止血帯、シーネ | 各救護所に救急箱を常備。 |
冷却・保温 | スポーツドリンク、氷・アイスバッグ、冷却スプレー/アルミブランケット、毛布 | 氷は猛暑日なら完走者一人当たり0.5kg、平年並みなら0.3kg程度の氷を用意。毛布はストレッチャーの数+α。 |
モニタリング | 血圧計、パルスオキシメータ、体温計 | 「記録→本部共有」を徹底し、搬送判断を迅速化。 |
衛生・予防 | 使い捨て手袋、マスク、手指消毒、汚物処理キット | 感染対策は観客対応にも必須。 |
搬送補助 | 担架、車いす、車両 | コース幅が狭い区間は“折りたたみ担架”が望ましい。 |
「アイテムは揃えたけど、“誰がどこで使うか” を決めていない」ケースが最も危険です。物品リストは “配置表と責任者” とセットで初めて機能します。
〈人員〉──“多めに呼んだ”では足りない
ランナー規模 | 医師 | 看護師・救急救命士 | 補助スタッフ(トレーナー等) |
1,000人 | 2〜3名 | 4〜6名 | 4〜6名 |
1万人 | 20〜30名 | 40〜60名 | 40〜60名 |
大阪マラソン2024(出走約3.4万人)は医療スタッフだけで約960名を動員しました。
「多すぎるのでは?」という声もありますが、雨が降り最低気温4.2 ℃となった大阪マラソン2024では、救護所利用632件・救急搬送14件(大阪府医師会公式報告)が発生しています。
配置の基本
- 固定救護所:5 kmごと+スタート/ゴール。医師1名+看護師1名以上を配置。
- 自転車(またはバイク)救護隊:AED搭載で2〜4 kmごとに巡回。渋滞区間・橋上・トンネルなど車両進入が難しい場所をカバー。
- メディカルランナー:ボランティアの医師・看護師・救命士などがランナーとして出走。周囲の異変を即時連絡。
- 救護本部:医師2〜3名+ディレクター。全救護所のバイタル・搬送状況をリアルタイム集約し、救急車や協力病院との橋渡し役を担う。
〈計画〉──紙のマニュアルを“動くオペレーション”に落とし込む
STEP 1|医療・救護委員会を立ち上げる
- 医師、看護師、救急隊、行政(消防・保健所)、大会運営事務局で構成。
- 役割分担と意思決定フローを文書化。
STEP 2|リスクシミュレーション
- コース図に「救護所・AED・搬送経路・救急車待機所」をプロット。
- 心停止・熱中症・転倒骨折など想定ケース別にタイムラインを作成。
- 気温・湿度シナリオを3段階(平年/高温/低温)で試算。
STEP 3|関係機関と連携プロトコルを締結
- 消防:出動基準、搬送ルート、会場待機車両数を事前合意。
- 協力病院:受入れ能力、連絡窓口、搬送優先順位を取り決め。
- 保険会社:損害・賠償リスクを可視化し、補償内容を確認。
STEP 4|現場訓練(テーブルトップ+実地)
- スタッフ全員でCPR・AED講習。
- 前日リハーサルで「ゴール直後に心停止」を想定し、2分以内AED実装をリハーサル。
- 無線・スマホアプリでの傷病者情報共有をテスト。
STEP 5|大会当日の運用と事後レビュー
- バイタル記録・搬送件数をリアルタイム入力(簡易クラウドシートでOK)。
- 大会終了後24 時間以内に「医療・救護レポート」をまとめ、次回改善点を洗い出す。
- 近隣消防・病院へもフィードバックを共有し、地域医療への負担軽減策を検討。
小さな“抜け”が大事故を呼ぶ
たとえば
- AEDはあるが鍵が開かない
- 氷は十分だがバケツがない
- 医師は待機しているがストレッチャーが足りない
いずれも過去の大会で実際に報告されたヒヤリ・ハットです。物品・人員・計画の“三つ巴”がそろって初めて、救護体制は“動く”ようになります。
事例とガイドラインに学ぶ:救護計画の “ベンチマーク” を持とう
「うちは中規模だから」と独自ルールで作るより、先行大会と公式ガイドラインをなぞって“自大会仕様”に落とし込むのが最短ルートです。
国内メジャー大会の救護体制
大会(開催年) | ランナー規模* | 救護ネットワークの骨格 |
東京マラソン 2025 | スタート約 38,000 人 | 〈救護所・医務室 24カ所〉〈BLS隊 40隊 80名〉〈BLSサポート隊 37隊 79名〉〈AED約 200 台〉〈モバイル隊 24隊 48名〉〈医師73名、看護師111名、トレーナー159名、その他(東陸、学生ボランティア)約229名、 メディカルランナー50名〉〈救護車両 42台 [スタート、各救護所1 〜4台]〉 |
京都マラソン 2025 | エントリー枠 16,000 人(前年出走15,722 人) | 〈救護所 15 か所〉〈約 400 mごとにAED〉〈メディカルランナー公募〉 |
* ランナー規模は大会公式「出走者(スターター)数」の最新確定値または過去実績を記載。
メディカルランナー・モバイル隊の有無は各公式サイトの救護概要ページより。
ポイント
救護所間隔は5 km弱でも、AEDは400 m単位で網を掛ける
→ “心停止黄金2分”を意識すると、固定AED + 自転車隊のハイブリッドが必須。
“本部医師少人数”+ICT統括 vs“本部医師大人数”+現地派遣型
→ 人海戦術かICT集中管理かは、医師数・コース形状で決まる。
気象条件で救護需要が変動
→ 雨天の低気温で搬送が急増することも。 “例年通り”は通用しない。
主催者が押さえるべき公的ガイドライン3選
ガイドライン | 目的/主な記載 | 今すぐ使えるチェック項目 |
日本陸連「市民マラソン・ロードレース運営ガイドライン」 (公益財団法人日本陸上競技連盟) | 医事に関する対策の概要。 | メディカル委員会/AED設置方針/救護所の構築/緊急搬送体制・救急車要請手順。 |
東京都「大規模イベントにおける医療・救護計画策定ガイドライン」 (東京都福祉保健局) | イベント医療計画の策定手順を網羅。 | ①各機関の役割/②救護物品/③搬送体制――3点セットを必須添付。 |
環境省「熱中症環境保健マニュアル2022」 (環境省熱中症予防情報サイト) | WBGT値に応じたイベント中止ラインを提示。 | WBGT 31以上で運動は原則延期。観測するための情報源も提示。 |
「小さな大会だし、前回問題なかったから今年も同じで大丈夫」――その油断が事故を呼びます。
先行事例+公式ガイドラインを“コピー&カスタム”し、毎年アップデートすることが、安全と信用を守る最短ルートです。
まとめ──「完走の歓喜」を最後の一人まで守り抜くために
マラソンは、挑戦するすべてのランナーにとって人生の節目になる一日――
最後に、その舞台をつくる主催者がランナーの安全・安心のために押さえておくべきエッセンスを5つに凝縮しました。
1. リスクは “多発する軽傷” と “まれだが致命的な重症” の二層構造
マラソン救護の現場では、数百件単位で押し寄せる水ぶくれや痙攣などの軽症状の対応と、極めて低頻度ながら大会の命運を左右する心停止や重度熱中症といった重度の傷病の両方に備える必要があります。救護体制はこの二層構造を前提に設計しなければ、安全も大会のブランドも守れません。
2. 救護を支える三本柱〈物品・人員・計画〉
氷や毛布、AEDといった物品は「どれだけあれば十分か」を数字で洗い出し、その動線まで設計します。医師・看護師・救命士にメディカルランナーを加え、固定救護所、移動隊、走路上の目という三層ネットワークで人の網を細かく張ることが必要です。そして搬送ルートと連絡フローをマニュアルだけにとどめず、事前訓練で“動くオペレーション”に昇華させて初めて三本柱が噛み合います。
3. 数字は味方になる
AEDはおよそ400メートルおき、救護所は2〜3キロおき、医療スタッフはランナー40人につき1人 -国内メジャー大会が示すこの水準を目安にすると、過不足が見えやすくなります。氷や毛布もWBGTや完走予定人数で係数算定すれば、準備物資の根拠が明確になり、調達や予算決定がスムーズに進みます。
4. ベンチマーク+自大会カスタムが最短ルート
国内の先行大会は〈固定救護所+移動隊+メディカルランナー〉の三層ネットワークで安全を守っています。まずはこれをベースに据え、コース形状、気象条件、医療資源という自大会特有の要素で微調整する──それだけで計画の骨格はほぼ完成します。既存のガイドラインは“使い倒す”前提で、テンプレートを取り込み、自大会の数字に書き換えていくのが賢明です。
5. 改善は「今年のうち」に
大会終了後24時間以内に救護レポートをまとめ、成功も課題も数字で残す。そこから次年度の目標値を引き直すサイクルを回すことで、救護品質は毎年確実にレベルアップします。事故ゼロを保証できる方法はなくても、リスクを減らし続ける仕組みは必ずつくれる -それが国内の先行大会の歩みが示す事実です。
こうして眺めてみると、安全をつくる鍵は決して「時の運」や「精神論」ではなく、数字で裏打ちされた仕組みと継続的なアップデートにあることが分かります。 だからこそ──計画と検証を積み重ね、確かな救護体制を整えたうえで、ランナー全員が胸を張ってゴールできるマラソン大会を実現していきましょう。
ALL SPORTS NURSE──スポーツ救護のプロフェッショナルが伴走します
弊社の看護師派遣サービス 「ALL SPORTS NURSE」 は、格闘技から障害者スポーツ、自転車競技まで幅広い現場で救護をサポートしてきました。
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